むかし、むかし戦争があった

 台風一過なのかわからないけれども、曇り空はどこかに行ったようで、また真夏のような太陽が戻って来た。南の空には、入道雲まで従えている。これでは、まるで梅雨が明けたみたいな気候だ。おまけに、気温もグングンと上昇していき、蒸し暑くて本当に熱中症に気をつけないといけない状況だ。おかげで、麦茶をガブガブと飲まないと、身体がもたないよ~




”沖縄慰霊の日”なんだそうだ。もう、戦後も80年経ってしまい、記憶も薄れている。σ(-"-) が子供の頃は、まだまだ戦争の傷跡がここ、そこいらの残っていた。繁華街や、年始に神社等にお参りにいくと、傷痍軍人の方々が立っておられた。

父親からは、お酒に酔った時などに、戦争で南方に行った時の話をよく聞かされたりしていた。そんな日々も、テレビが家に入り込み、高度成長期になり、一気に日本は近代化の道を駆け上がっていったことは覚えている。


子供の頃の遊び場でもあった、防空壕は立ち入り禁止となり、そのうちに埋め立てられた。軍刀のあるお家もあり、子供の頃はその刀をみにいったりしていたものだ。そして、神戸駅から三ノ宮駅の高架下は、闇市さながらのまま商業施設が軒を並べていた。しかし、高架下であり少し怖いイメージもある、なかなか趣のある商店が多かった。


”ええとこ、ええとこ、新開地”は、まだまだ活気があったと思う。しかし、子供の頃は恐ろしい場所で、言ってはいけないようなことを言われていた。

高度成長に伴って、道路はアスファルトで舗装され、穴ぼこの道はどんどんと無くなっていった。それまでの遊び場だった空地も、徐々にビルが建ったりして、遊び場が減っていったことも覚えている。近所に市場はあったものの、近くにはダイエーができて、その大きさと何でも揃う品揃えのお店にびっくりした。今思うと、個人商店のお店と比較するのだから、それはそれは大きなお店だと思っていたけれども、昭和40年代前半のダイエーの店舗なので、そんなに大きな店ではなかったのかもしれない。それでも、店内にはエスカレータが備わり、近代的なお店であった。残念ながら、この店も震災の後になくなったみたいだ。

世の中が近代化していくにつれ、戦争の傷跡はどんどんとなくなり、傷痍軍人さんも見かけなくなった。そして、父親もお酒を飲んでも戦争の話をすることもなくなっていった。同級生の両親は戦争には行っていない人ばかりだったので、戦争の話がでることもなくなり、むかしむかし戦争があったというように、記憶は薄れていった。


小学校高学年の頃には、分からないながらにも「戦争を知らない子供たち」を歌いながら、平和の日々を満喫してた。その後は、平和な日々が当たり前の中で、フォークソングがニューミュージックと言われる頃には「あの人の手紙」や「運命河」といった歌を背伸びして歌っていた。その背景や、思想というよりも、若い時の大人への反抗というか、大人の事情というなれ合い的な空気への反感という若い時代特有の青臭さからだったのかもしれない。さらに、大学の頃には「イチゴ白書をもう一度」を口ずさみながら、就職にむけてそれまでの長髪を切ったことの言い訳をしていたもんだった。もっとも、それは「就職が決まって髪を切った」のではなく「就職をするために髪を切った」のだったけれども。また、その頃には、「世情」を聞いていたりもしたもんだけれども、学生運動とかベトナム戦争はσ(-"-) の世代には過去の遺物のようなものだった。


そんな過ぎ去り日を思い出しながら、親父たちの世代が命を懸けて守ろうとしていたものを、守り切れているのだろうかとふと思ったりもしながら、この沖縄慰霊の日を過ごした。

守らないといけないものをまもらず、守らなくてもよいものを守っているてなことにならないように、守らなくてよいものは切り捨てながら、守らないといけないものを守り切れる生活を後世に伝えていけるように、精進していきたいものです。



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