少子化は止まらない
昨日の気持ちよい天気から一転して、曇り空の広がる空となっている。気温だけは上がっており、蒸し暑く感じるような日となっている。まさかとは思うけれども、初夏を通り越して梅雨にでも入ったかのような感じである。
先日、あまりにも安易に”少子高齢化”という言葉を使っているのではないかと書いてみた。日本の将来像や課題を語る時に、訳知り顔でこの”少子高齢化”を使う事への疑問である。日本の課題はつまるところ、”少子化”というところに行きつくように思えてならない。
戦後、日本の成長発展があったのは、当時の日本人の尋常ならざる頑張りがあったことは否めない。そして、そこに”人口増”というおまけが付けられていたのだと思っている。戦後のベビーブーム、そしてその団塊の世代から生まれた第2次ベビーブームに支えられてきたといっても良いと思う。そのころは、永遠に右肩上がりの経済成長が続いていくんだと思っていたものだ。σ(-"-) の子供の頃は、とにかく子供が沢山いた。小学校は一クラス45人で6クラスくらいあった。それでも、中規模以下の小学校だった。中学校はその倍の12クラスまであった。部活動なんかでも、とにかく生徒数が多すぎて設備が追い付いていなかったように覚えている。おかげで、入った部のスポーツをさせてくれるというよりも、しごきにも似た運動で身体づくりを優先されていたような気がしないでもない。3年生が部活動を引退してから、ようやくそのスポーツの練習をさせてもらえたものだ。
それが、徐々に子供が減っていったのだ。σ(-"-) 現役で働いている頃の1990年代初頭には、「1.57ショック」という言葉がはやり病のようにもてはやされていた。出生率が1.57にまで低下したというニュースである。一人っ子なんて、子供の頃にはレアケースでしかなかったけれども、そのころには一人っ子家庭がどんどんと増えていた。
それでも、まだまだバブル経済の余波もあり、日本経済は余裕を持っていたように思う。将来的な課題として人口が減少するらしいということは、データからもうなづけた。そして、年金とか社会保障に関して、大きな問題になりそうであるとはわかるものの、わが身のこととしては、なかなか想像できていなかった。
平成時代になるころには、毎年のように子供の誕生が少ないことが問題として報道された。その頃から、連合なんて言うところでも、”人口オーナス”とか初めて聞くような言葉を使って、右肩上がりでない世界の問題を指摘しだした。それでも、連合は”少子高齢化”を問題視し、高齢化問題という政府の思惑に乗っかった論調を繰り返していた。新しい言葉を使いたがる、進歩人の人たちは自分がなんでも知っているように、新語で人々を胡麻化そうとするけれども、その主張は得てして政府の主張を肩代わりして述べているだけのことが多い。自分で、研究し尽くして述べるのではなく、雰囲気で新語を使う。そのコンセプトや概念を含めた論旨は、政府からの借り物で、広報宣伝の一翼を担っているようにも感じるものだ。そんなこともあり、σ(-"-) 新語を使いたがる、進歩人を気取った人は嫌いだ。
一番の問題は、子供が減ることもさることながら、労働力人口が極端に減少することだと思う。人口問題は、その時々の課題で大きく変わるのだと思う。そして、その対策を練る人たちは、自分たちの目の前の課題の解消に向けての対策であり、将来的な視点がどうしてもかけることになっていると思う。だって、30年度にはその対策を立案した人たちは既にリタイアしており、責任を追及されることはないのだから。今さえ良ければ、自分の仕事の上に置いての問題が発生しなければ、課題は先送りという変な考え方が蔓延しちまっているのだ。自分の代に問題が発生しなければ良い、すべてが他人事で責任回避を一番に考える。そして何事も面倒なことは先送り。次の時代の人たちが苦労しようが我関せず。目先を変え、のらりくらりと誤魔化し、自分の時だけ何とかうまくこなしていくという、小物の発想しかできない官僚ならではの発想である。なにも、これはこの問題だけではなく、多くの経営者たちにも自分の時だけうまく回すことができればそれで良しという風潮がまんえんしているのだ。ニ●ック、マク●ナルド、サ●トリーなどの大企業でさえ、そんな風潮に冒されていた。
人と人の関係性が薄れてきている、個人の時代の今だからこそ、人とのコミュニティーを形成することが求められているのではないのだろうか。









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